宗教の本質は思い込みの力ではないか | 日々、暮らしています。

宗教の本質は思い込みの力ではないか

職場の事務所に神棚があります。
ぼくが入社するまでほとんど掃除をされていなかったためか、埃をかぶっていました。

神棚は棚の上に設置されていますが、かなり低い位置にあるためかよごれていることが目立ちます。
逆を言えば、踏み台等を使わずに手が届く高さです。

現在事務所に常駐しているのはほぼぼく一人なので、ぼくが放っておけば神棚は埃をかぶったままになります。

そこでぼくの手で神棚を掃除することにしました。

ぼくは、聖書のことを調べてみたり、神道や仏教のことを調べてみたり、古事記を調べたり、神社を巡ったりするのは好きですし、伝統的日本文化は色々なものから影響を受けた神道そのものといっても過言ではないと思っているのですが、基本的にほとんど信心がないのです。

しかし、「神棚をきれいにしておかないと罰が当たる」とか「神棚はきれいにするといいことがある」などという主張が頭をよぎり、その主張の真偽はどうあれ、よぎってしまった以上は従ってみることにしたという感じでしょうか。
汚いよりは綺麗な方がいいですし(それは神棚に限らずでしょうか)。

ぼくに幸福をもたらしたり罰を与えたりするかたちでの神様は存在していないと思うのですが、よぎってしまった「神棚をきれいにしておかないと罰が当たる」とか「神棚はきれいにするといいことがある」という「思い込み」・「条件付け」或いは「呪い」が、実際にそういったことを「引き寄せる」側面はあると思います。

ここに宗教の本質があるように思います。
要は思い込みの作用です。
たとえば、「しっかり神様にお願いしたから大丈夫」という思い込みがその人を「大丈夫」にさせ、その事実がよりいっそう信心深くさせていくというメカニズムです。

実際に薬効成分ない薬(偽薬)を患者に飲ませたら実際に症状に改善がみられる「プラシーボ効果」、死刑囚にあたかも実際に自分の血が流れていると思いこませる実験で死に至らしめた「ノーシーボ効果」なども全く同じ現象だと思います。

古来より、毎日神棚を拝む文化はシンプルで画期的な「条件付け」として作用したのだと思います。
神様のいる・いないはもはや関係ないことですし、入れ子的な話になりますが、「いる」という条件付けをしているひとには実際にいることになるのでしょう。

ここで思うのは、ぼくがもっとシンプルに神様を信じて疑わないような人であれば、簡単に条件付けでき、もっと簡単に幸せや、成功や、富や、名誉やそういった類のものを手にすることができたのではないかと思うのです。
どうもぼくは理屈バカでだめですね。
神様的な存在を頭ごなしに否定するつもりは全然ありませんが、論理的で客観的な説明をしてもらえないことには、信じるにいたらないんですよね。

思い込みの力のすごさを知っているのでそれらを手にするにはあと一歩なのですけどね。

「全てがうまくいく!」
はい、おわり!

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